東日本大震災から、今日でちょうど10年。
ついこの間のことのような、ずいぶん時が経ったような、不思議な心持ちです。
最近は、テレビのニュースを見ても、震災10年特集ばかりだった印象です。
ボク自身、こうしたニュースを直視できませんでした。
被災者の心の痛みに触れるのが辛いとか、未だ終息が見通せない原発事故の状況を直視するのが辛いとか、全くないわけではありません。
実際、そういう感覚は、3年前に三陸を訪れ、震災遺構や復興の現場を目の当たりにしてからますます強く抱くようになっています。
しかしながら、一番の理由は、「震災の記憶を風化させるな」の連呼に対する反発でした。
決して、報道の在り方を批判しているわけではありません。
震災の記憶を風化させるなという主張は、至極真っ当なものだと思います。
だけど、忘れたくても、忘れられねぇよ…。
10年前、ボクは東京で勤務していました。
ちょうどあの日は、菅総理(今の人じゃなくて、カンさんの方です)が外国人献金問題で窮地に立たされていて、職場のテレビでは追及の場となっていた予算委員会の中継を映していました。
その時、職場の誰かの携帯から、けたたましい音が。
上司が「これ、ヤバいよ」と呟いた次の瞬間、大きな揺れ。
ボクは咄嗟に、棚の上にあったテレビが落ちないよう押さえていました。
1分ほど揺れたでしょうか。
国会中継のテレビ画面は、程なくニューススタジオに。
その後は、津波の映像を、固唾を飲んで見守り続けていました。
宮城県からやってきていた同僚は、顔面蒼白になりながら、地元との連絡を試みていました。
そんな中、地下鉄が完全に止まっているとの情報が入り、これは帰れないぞと大騒ぎに。
ブラウザの更新ボタンを連打しながら、東京メトロのホームページで千代田線が再開したとの情報を待ち続けました。
待ち望んだ情報がようやく出たのは、午後11時前。
同じ方面の4人で職場を飛び出て、北千住行きの電車へ。
車内はさほど混んでいなかったのですが、北千住駅に着くと、反対方面の電車を待つ人で大混乱。
この混乱で、我々が乗った列車の後、運行は打ち切られたそうで、北千住まででも電車でたどり着けたことは不幸中の幸いでした。
ただ、そこから自宅のあった綾瀬までは、1駅分と言いながら、歩くと1時間。
歩いて家路を急ぐ人で歩道が溢れかえった国道4号・千住新橋を渡り、寒い夜道を男4人ひたすら歩きました。
綾瀬の駅前に着いたのは午前1時ごろ。
さすがの空腹に耐えかね、まだ開いていた駅前の焼肉屋に入ると、電車が止まった煽りでこの日は全く客が来なかったらしく、えらく歓待してもらえました。
……当日のことだけでも、十分盛り沢山です。
その後も、翌日の休日出勤の帰りに立ち寄った銀座の閑散とした景色、数日後の通勤時に地下鉄車内で一斉に鳴った緊急地震速報の音、近所のコンビニで働いていた避難者の方の東北訛り……などなど、忘れることのできない記憶は山のようにあります。
たかだか、帰宅難民になりかけたようなボクでさえこうなのです。
大切な人を失った方々、住む場所を失った方々にとっては、尚更のことでしょう。
一方で、震災の記憶の風化の実感も、確かにあります。
東北から遠く離れた広島にいると、とりわけ強く感じます。
いちばん直視し難いのは、記憶の風化、そのものなのかもしれません。